日本史最大のクーデター 「本能寺の変」 発端は諏訪の地「法華寺」から!? 織田信長と明智光秀に何が・・・

歴史名所 伝説

誰もが知っているであろう
明智光秀が織田信長への謀反による本能寺の変

まさか、そのきっかけが、諏訪の地で
巻き起こっていたかもしれないと思うと
歴史を身近に感じて、テンションがあがってしまいます

早速、諏訪神社(上社本宮)すぐ横にある法華寺へ行きました



山門が朱赤でわかりやすいです

吉良上野介(きら・こうずけのすけ)の外孫にあたる
吉良義周(きら・よしちか)のお墓もあるようです


本堂は、平成11年の火事によって
焼失されてしまったようです
なんと 残念で悲しいことでしょう・・・

今の本堂は、平成17年に再建されたものだそうです


看板にも記載されています
本能寺の変の原因の一つであると・・・

いろいろ調べてみますと
天正10年(1582年)3月3日に織田信忠は
法華寺すぐ横の諏訪大社上社本宮を焼き払いをし
偶然にも!?同じく3月3日に武田勝頼は新府城に火をかけ
小山田信茂のいる岩殿城をめざします
その後、小山田信茂の裏切りから勝頼一行は天目山へ
約1週間後の11日に武田勝頼が自害となってしまいます

武田勝頼の自害により武田攻めが終了となり
織田信長は、3月19日に諏訪に(法華寺)陣を置き
論功行賞やお酒の席を設けていました
織田信長は、約2週間滞在していたようで
武田信玄が、大事にしていた諏訪神社が焼け焦げた
焼失のシーンを見ていたのでしょう

長年の強敵であった武田氏を打ち破り、織田信長も安心していたのでしょうか
そんな時に、明智光秀が織田信長に一言
「これで私も骨を折った甲斐がありました」
この言葉を聞いた織田信長は、激怒しました
「お前ごときが何をしたというのだ!!!!!!!」
織田信長は、多くの部下がいる中
明智光秀を殴る蹴るなど散々な事に・・・
このシーンは、大河ドラマ「真田丸」の4話で描かれています

しかも、その約2ヶ月後には本能寺の変(天正10年 6月2日)が
起こっていますから、原因はそれだけではないかもしれませんが
原因の一つと考えてもおかしくはありませんね・・・


本堂の裏に登っていく道があります



赤穂浪士討ち入りにて、重傷を負いながらも
働きが良くなかったと幽閉処分を受け 諏訪(高島藩)に来ました
わずか21年の生涯を終えます


別ルートで本堂上へ行くと(五本杉から更に上へ登る)

「武田信玄公墓碑」がありました

ここでも、信玄公にお会いできてうれしいです

あと、全てなんとか読めましたが
ん????

「坂上田村麿」???? 聞いた事あるぞ
どうゆう事??? なんだっけ・・・

そうだ!!蝦夷討伐で征夷大将軍ですね
そこしか脳内では出てきませんでしたが
何か諏訪と関係ありましたっけ??

やはり、気になりますので調べたら
蝦夷地・東北へ向かう際に、諏訪大社に寄って
戦勝祈願や神宮寺の建物を作ってくれているようです

あと一つ
白くて全く読めない所の碑はどなた様でしょうか??
これも気になります・・・
神宮寺の五重塔を寄進された武将で、「知久左衛門入道」のお墓とのこと

神宮寺跡は、マレットゴルフ場などに整備されていましたが
詳しくは、諏訪市博物館に五重塔の10/1の模型など展示があります

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