武田勝頼一行の動きを実際の順に辿っていくのは、また今度にしまして
天目山の地へ行く事にしました
まずは、甲斐大和駅のすぐ近くにある武田勝頼の像を見に行きます

2002年に銅像は設置されたようですが
すごく綺麗に整備されていて、地元の方々に感謝・感謝です
また、中学校も近くにあり子供たちの声も聞こえて良いところです
いきなりですが、
勝頼は武田家を滅亡に追いやったダメな武将ではないと私は思います
だって、信玄よりも領地を拡げた結果を出しています!
ただ、なぜ信玄は勝頼を「陣代」と告げてしまったのだろうか??
そんな中、甲斐の国主になり立派にやっています
大河ドラマの「武田信玄」を観ても、将来は有望な武将にて演じられています
やっぱり、特に信長が力をつけて、外部環境の変化が大きくて
運が悪かったとしか思えません

ここから国道20号を八王子方面に行き、信号「景徳院 入り口」まで行きます
天目山に来たーー!って感じがしてきます

しばらく行くと、本やネットで見た事ある
「鳥居畑古戦場の碑」(とりいばた)がありました

碑の横にある説明書きです

その近くに広い駐車場があり、「姫が淵」(ひめがふち)に辿り着きます

武田家の侍女16名が、敵に追われ日川に身を投げたという地
石碑の中央は、勝頼の正室として嫁いだ北条夫人でその周りに16名の侍女が
描かれています

その「姫が淵」の近くには「景徳院」(けいとくいん)となります

山門から上に行こうかと思ったら ちょっと待って何かある!!

何という事でしょうか
父・子共にとは・・・

戻り、山門から緩やかな道ではなく、急な道の方から上へ行くと
「没頭地蔵」がありました
よくよく、見てみると・・・

武田勝頼37才・北条夫人19才・武田信勝16才と記載あり
あれ?北条夫人が正室19才で子の信勝16才???
どうゆう事だったか疑問に思い調べました
まず、子「信勝」の母は「竜勝院」(りゅうしょういん)
竜勝院の父は美濃国の「遠山直廉」(とおやま なおかど)
母は織田信長の妹「苗木勘太郎室」(なえきかんたろうしつ)
よって、竜勝院は信長の姪にあたり
信長の養女として勝頼の正室として嫁ぎ
子「信勝」を産みますが、難産にて死去され
(それは誤りという説もあります)
長篠の戦いの後、外交の相模との関係を強める為に
「北条氏康」(ほうじょう うじやす)の6女である
「北条夫人」を継室(けいしつ)として迎える
だから、子「信勝」と「北条夫人」の年齢が近いのか
納得です!
確か、「信勝」の名前は大河ドラマ「武田信玄」では
信玄(演:中井貴一)が、長男「信義」の生まれ変わりと喜び
自ら命名していたシーンがありました

上へ登り、先程の没頭地蔵の案内図を見ると
何と、御遺骸を葬り奉る(たてまつる)と記載・・・
もう一度行き、お参りをしてきました


甲将殿一体がお墓のようです
手を合わせ、合掌
そして合掌のまま、巡る事にしました

信勝 生害石

北条夫人 生害石

勝頼 生害石

3人の生害石は、甲将殿を近くに、寄り添っています
織田・徳川軍にやられたのか、せめてもの名誉の為に自刃したのかは
わかりませんが、古くからの地元の方々の想いの現れかと思います

甲将殿の裏に行くと、お墓があります
勝頼の墓は中央の宝篋印塔(ほうきょういんとう)
北条夫人の墓は向かって右側の五輪塔
信勝の墓は向かって左側の五輪塔

その両脇が殉難者の供養塔

近くにある説明書
お墓は勝頼の命日から200年後の安永4年(1775年)3月11に
当時の住職が、200年遠忌にて建立されたようです
また、平成18年の保存修理事業から、基壇内部から5,000点を超える
経石が出土したとのこと
とても、丁寧に供養いただいていることが、説明書には記されていました

本堂へ行きます

地元の方なら唄えるのでしょうか
聞いてみたいですね

本堂にて手を合わそうと近くに行ったら
!?!? 良く見てみると・・・

勝頼公の肖像画が中央に!!
手を合わせて合掌です

庭も綺麗でした

寺院控え室かな?ここにも勝頼公の自画像
大事にされているのですね

武田信勝 辞世の句
【あだに見よ たれも嵐の 桜花 咲き散るほとは 春の世の夢】
はかないものと思え。人は嵐の中の桜のようだ。咲いて散るまで、春の世の夢のような人生なのだ(咲き散る=武田家の栄枯)
北条夫人 辞世の句
【黒髪の 乱れたる世ぞ はてしなき 思いに消ゆる 露の玉の緒】
黒髪が乱れるように、世も乱れきっていて、いま主人を思う私の心も、露のように流れ落ちて消えようとしています
武田勝頼 辞世の
【おぼろなる 月もほのかに 雲かすみ 晴れて行くへの 西の山の端】
雲にかすんだ月がおぼろに見える。やがて霞は晴れて西方浄土に向かっていくようだ
最後まで勝頼に寄り添っていた北条夫人の勝頼への想いが伝わる句ですね
3人揃っている肖像画があって、戦国大名としてはなかなか残っていない
家族画ですから、家族仲良かったと思います

さて、景徳院からさらに天目山を登っていくと
ここも有名ですね「土屋惣蔵」(つちや そうぞう)片手千人斬りの碑へ

本当に蔦があるから、臨場感が伝わりました
ただ、道が緩いカーブなので車に注意ですね
「土屋惣蔵昌恒」(つちや そうぞう まさつね)は長篠の戦いで、
馬防柵を突破し討死した武田24将の一人
「土屋昌次」(つちや まさつぐ)の弟であり
道幅が狭いところで殿軍をつとめ、織田軍を相手に
片手で蔦を掴み、大太刀を片手で振るって敵を斬り、日川に蹴り落としたそうです
日川の川の水は、3日間赤く染まり、兄同様に鬼神の奮戦をされました


土屋惣蔵の碑から登ってすぐに、「日川渓谷レジャーセンター」があり
家族で釣り堀やバーベキューを楽しまれていました
現代はコロナ禍と言えど、平和ですね
ここから、さらに登り

天目山 栖雲寺(せいうんじ)へ
勝頼は、栖雲寺へ目指しますが
辿り着くことなく滅亡となってしまいます


武田信満の墓 上杉禅秀の乱に加担し、室町幕府の禅秀討伐軍の攻撃を受け
武田信満は自害

中も雰囲気が良いです

いろんな物も置いてあって楽しかったです

そばも有名ですが、何と言っても庭の景色は見応えあります!

しかも、富士山が見えました!!
地元の方は、日常の景色かもしれませんが
これだけで、かなり感動ポイントです!
気付けば、かなり歩いていました
勝頼一行からしたら、何のことはないかもしれませんが・・・
天目山を登る途中に、温泉がありましたので(しかも2箇所)
ここも、巡らせていただきます



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